日常茶飯事 日常 忍者ブログ
ソロユニット"とりととら"の主宰・玉邑の日々
2025.03.01
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2009.01.26
最近人に会うのがなんか苦手になってる。
なんでかよくわからない。
戯曲が難しい。
何を書きたいか?をずっと考えている。
根本はわかったんだけど、次の何を出すか?がよくわからない。
っていうかわからなくていいんだけど、やっぱりある程度形にせねばと思っている。
矛盾してることをやろうとしているのはどうなんだろう?
先が見えないってのはへんなもんだ。
いろんな人が、言ったことに逆行してるかもしれないとか考えると柄にもなく不安になる。
小さい。
もっと悩もう。
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2009.01.23
かき
書きながら、かなり話が飛んでる。
まだまだ捕まえきれてない。
2009.01.23

捨てるという言葉の強さにひっぱられない。
もがくという強さも同様。
これらの言葉のイメージのせいでうまく動けない。
もがくとは、すごく苦しい顔・仕草をするだけではないということを思い出さなければいけない。
ゆるやかな中にももがくという言葉はあるはず。
ゆるやかな中とはなにか?
それを考えるべき。根っこがずれる。人の根っこを考える必要はないか。
演出とはなんだ?
答えを持っていることと答えを教えることは違う。
そもそも答えを持っているといってる答えが答えではないと思う。
ようするに答えはないわけで。
ただ戯曲には枠が必要。
枠とは答えか?
いや、枠は、答えではない。
枠も動く可能性を持っている。
あくまでも全て流動的な状態を忘れずに作っていくべき。
流動的とは、話し合うこと。
しかし、流動的なものは言葉として対話ができない。もしくは、しにくい?
枠がない(流動的ということ)は、固定できないということ。
いや、でも、戯曲の枠を俳優自身の環境ととらえれば、枠を作らず自由にやってもらうのこと(それは俳優の環境の中で考えることにほかならない)と同じではないか?
自分の環境か、そうじゃないのか、だけではないのか?
ということは、戯曲の枠は伝えてもいいと思う。
あくまでも解釈の仕方、方法を自由にすべき。
環境を自由にするというのは少し違う気がする。
多分、その場合戯曲などの枠は必要ない。
戯曲を使いたい、もしくは、根っこに戯曲がある場合は、戯曲を俳優たちの環境とすべきである。
その環境でどう生きるか?はまかせる。
さてそこで大問題。
戯曲の枠の範囲とは?
多分その問題が一番ややこしい。
考えようか。カテゴライズしようとすることが難しい。矛盾してるかもしれないが、
多分どんだけ矛盾していてもカテゴライズしてるのだと思う。
それはカオスレベルになってもしかり。
多分、そのカテゴライズがすぐ変わりのが矛盾だと思う。
カテゴライズって言葉はややこしいが、結局選び取っているということなんだろうな。
その流動的な選び取ってるものを僕は追いかける必要があるんだろう。
やっかいだな。
追いつけないけど、がんばろう。
 

2009.01.18
タイトルは意味ないと思っています。

書きたくなった。
多分見てほしいんだと思う。
どうでもいい言葉だけど。
がんばる。
それだけ書きたくなった。
2009.01.18
一人でいる。
彼女は一人でいる。
私は一人でいて、彼は私を彼女という。
うまくいえないから遠回りのように見えるけれど一番近い方法で近づく。
逃げていく方向は私?
そうであれば近づける。
逆ならば
彼の傍まで近づく
一人で彼をそばにおいて私は彼女の世界で生きている。
彼女が死ねばもろとも。
降りるしかない。
出れない世界がやっかいだが