捨てるという言葉の強さにひっぱられない。
もがくという強さも同様。
これらの言葉のイメージのせいでうまく動けない。
もがくとは、すごく苦しい顔・仕草をするだけではないということを思い出さなければいけない。
ゆるやかな中にももがくという言葉はあるはず。
ゆるやかな中とはなにか?
それを考えるべき。根っこがずれる。人の根っこを考える必要はないか。
演出とはなんだ?
答えを持っていることと答えを教えることは違う。
そもそも答えを持っているといってる答えが答えではないと思う。
ようするに答えはないわけで。
ただ戯曲には枠が必要。
枠とは答えか?
いや、枠は、答えではない。
枠も動く可能性を持っている。
あくまでも全て流動的な状態を忘れずに作っていくべき。
流動的とは、話し合うこと。
しかし、流動的なものは言葉として対話ができない。もしくは、しにくい?
枠がない(流動的ということ)は、固定できないということ。
いや、でも、戯曲の枠を俳優自身の環境ととらえれば、枠を作らず自由にやってもらうのこと(それは俳優の環境の中で考えることにほかならない)と同じではないか?
自分の環境か、そうじゃないのか、だけではないのか?
ということは、戯曲の枠は伝えてもいいと思う。
あくまでも解釈の仕方、方法を自由にすべき。
環境を自由にするというのは少し違う気がする。
多分、その場合戯曲などの枠は必要ない。
戯曲を使いたい、もしくは、根っこに戯曲がある場合は、戯曲を俳優たちの環境とすべきである。
その環境でどう生きるか?はまかせる。
さてそこで大問題。
戯曲の枠の範囲とは?
多分その問題が一番ややこしい。
考えようか。カテゴライズしようとすることが難しい。矛盾してるかもしれないが、
多分どんだけ矛盾していてもカテゴライズしてるのだと思う。
それはカオスレベルになってもしかり。
多分、そのカテゴライズがすぐ変わりのが矛盾だと思う。
カテゴライズって言葉はややこしいが、結局選び取っているということなんだろうな。
その流動的な選び取ってるものを僕は追いかける必要があるんだろう。
やっかいだな。
追いつけないけど、がんばろう。
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