日常茶飯事 忍者ブログ
ソロユニット"とりととら"の主宰・玉邑の日々
2025.02.28
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2010.11.26
記録
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2010.11.26
韓国ん
歩き煙草をしている人を見るとイラっとくる。
当たったら危ないだとか思うけど元々歩き煙草禁止のルールができる前はそんなにイラっとはしなかった。
僕だけかもしれないが、なんだかルールと決められてからそれに違反するひとを見ると、ルールを決めるまえより感情的になってるように感じる。
枠組みがあってそれに対して判断する。それは枠組みから感情が出現するということなんだと思う。
無秩序の状態に感情が出てくるのは難しいのかもしれない。
ここでいってる感情は人間の、って意味で。
動物は欲望だし感情があるとしても人と違うものだろう。
夕日を見て感動するのは人だけだと思う。
動物が感動するとしても人のようにじゃない。
でももしかしたら感動しているのかもしれない。でも人間の言葉でそれを表すことは不可能だ。

そもそも現実っていうのが目に見えるって時点で感情はその現実の形のある物に投影されていくんじゃないかと思う。だって形が現実だから(目に見えない空気もあるけどとりあえず置いといて)
形になっている一つのものを自分と自分じゃない他人が見ていると物が私たちの仲を取り持ってくれる。
そのおかげで私たちは言葉もしゃべるし何かを作ることもできる。
ようするに形になっているものを共有しているっていうのが、他人と関わるにおいてかなり大きいキーワードらしい。
目に見えるものを見たり、もしくは見えなくても音を耳で聞いたりして、他人と共有できるものがあると体感している、そして安心感を得ているんだろう。それは他人と触れ合う時にもいえることで、実は、物を通すっていうのは体を通すっていうことともいえる。自分の体も形なんだからそれで他人と形を共有しているんだろう。

でもそこには共有しきれないものも確かにある。
ないものねだりをする人はそれをなんとか共有しようと必死になる。
けれどすごく単純なことで、ただ、形を共有すればいいだけのことなんだろう。
形から受け取る感情まで共有しようとすると人は何かへんな方向にいってしまう気がする。
でもそれは、他人を自分と切り離して考えるということではなくて、発言するけれど影響を与えようとするのではないということだ。影響は、受け取った人が決めるものなのだからそこは深追いしすぎないほうがいい。
じゃあ私を知ってほしいと思いながら話すことは影響を与えることになるのか。
そもそも他人と話す、発すること自体が影響を与えようとすることなんじゃないか?とも思う。
結局はそういう自問自答をしながら、相手と話すことしかできなくて、そしてそれが大切で、もしかしたら何か相手に与えるだろうなっとわかっていればそれでいいのかもしれない。
影響を与えたい、なんてその人個人のプライドだろうなんだから、それは極力減らしたいとは思う。
自分を認めてほしいというエゴを表現をかえて言ってはみても、やっぱりそれはどこかへんな方向にいかざるおえない気がする。
相手を受け入れるっていうのは、考えて話すということんなんじゃないか。
話しているときに、自問自答していたとしてもそれは相手の影響を受けているんだから、いいんじゃないか。
話している人のことばかり考えるということはある意味で相手を受け入れていないということにもなる。
相手を知ろうとしなくても、会話の中で自問自答や質疑応答などしていたらそれは生きている話しになりそうだ。どうして自分と話すことが、こんなにも他人をないがしろにしているという風潮になっているのかわからない。ねむいから文章ハチャメチャ。

北韓国が韓国に爆弾?ロケット弾?を落としたことを今日知った。遅い。
その話の中で、詳細を聞いていたら、初め詳細なしで聞いた時より他人事に感じた。
そのことを忘れないようにしたい。
アフガニスタンより近いところで起こった事件は距離が近い分、聞いた時、ショックだった。
詳細を聞いてアフガニスタンくらい遠く、他人事のようになっていくのがなんなのかもう少し考えないといつまでもそういう国と国との問題を棚に上げそうだから、自分を探っていきたい。

ねる。
2010.11.23

人の文章を読んで自分の文が章にもなってないぞと
凹む。
これもよくあること。
プライドだらけ。

菊名のホームで面白い看板を見つけた。
「女性だけの探偵事務所」
みたいな看板だったけど、なんかあそこだけ浮いてて面白い。
むしろそれを目の前に急行を待っている人たちのほうが面白いと思う。
急行を待っている間ずっと見てた。

人に自分の気持ちを伝えることは難しいなーっとあらためて思う。
昔にくらべて自分の言葉が単純な簡単なものになってしまってるようで
周りが僕の言葉を聞いても伝わることが少ない。
それは説明が下手だからかっといわれるとそうでもなくて
説明すればいいってものでもないと何年か前に痛感している。
っというか説明の仕方が悪いんだろうな。
うまく言葉で伝えようとしてしまうからいけないんだってことはわかるけど
なんでもそうだけどどうやって今の状況を相手に伝えるかということを、ようするに方法を先だって考えてしまうようで、それはただの癖だとも思う。
癖なら癖なりにほおっておけばいいものをそれに抵抗してしまう感情もでてきてニッチもサッチもいかないようになって説明を極力省いた単純な言葉を使うようだ。

これだと全然だめだな。
「空が青い!」って気持ちを込めていったところで、それを実感として持ってる人にしかそれは伝わらないんだな。意味は伝わるけど気持ちが。
これはどういうことなんだろう。
ってどうってことない、そのまんまなんだろう。
気持ちを伝えるってとても難しいなっと当たり前に普通なことを思う。もちろんそこに伝わったかどうかの間違え探しみたいなものもあるけれど、そんなこというとキリがないんだな。知ってるけど考えが止まらない。

ようするに自分の問題が大きい。
相手の問題にすることは容易いけど、それは相手を強制することに繋がるからお門違いだと思う。
それに相手の問題に散々してきたからとりあえず今はいい。
多分、相手に気持ちを伝えるっていうのの、気持ちっていう言葉の意味がせまいんだろう、僕は。
あと、時間に追われているせいで、結果を早く出そうとしすぎるのも原因のひとつ。
他人は僕と違う体だけどどこかに繋がりがあるということを忘れないように。
切り離すのではなく、溶け込むのでもなく、見ること。目の前のものを。
その瞬間瞬間で判断しなさい。
ハイ。

それにしても文章をよんで凹む自分のはくだらない。
かっこつけてもはじまらないし、周りに支持される人を羨んでもしかたがないんだ。
僕はいつまで経ってもプライドから抜け出せない。
飯田さんに言った「周りの目が気になるのは仕方がないんだからそれを捨てるって考え方ではなく、それが自分だと受け入れるって考え方のほうが自然な気がするよ」っという言葉が反復する。
文を書いていても迷いがあるんだろう。
体感のある言葉と抜け殻だけがある。
言葉の形骸化、自分の体とは違う外側のもの、見た目を重視するくだらなさを思う。
形骸って言葉も体に落ちていないし。
それを使う意思が社会のほうじゃなくて少しでも自分のほうにあってほしい。
でも読み返すと社会にあることが多いのが悩みの種なんだけど。
そこには自分の振り幅に対する挑戦の意思も含まれているから肯定してあげたいとも思う。
だからどこに納得を置くかだと思う。
外ばっかりに目を向けることで自分が抜け殻になっていく危機を常に忘れないようにしないといけない。
個性なんてどうでもいいと思う。
でも自分がここにいることは事実なんだから他人をないがしろにできないのと同じように自分もないがしろにはできない。
っというか「しない」か。
実感があったら「できない」と選択肢を持たないくらい強くなれるのか。
でもそれは多分強くない。
選択肢を持ちながら選んでいることのほうがより強いように思う。
右を見ながら左を見るような芸当はできない。
だから右を見ながら左も思うっていうのをできるようにはなりたい。

ガンバ。
2010.11.21
お願いです
切らないでください糸を
毛糸かシルクかキルトか知らないけど
色は白いその先を鋏かなにかで切らないでください
あなたには手が二本あるから
糸の末端とそのすぐ傍をもって
千切ってしまうこともできるでしょうが
けしてやらないでください
何かにつながっているかもしれませんし
何にもつながっていないかもしれませんから
だから切らないでください
確かめるわけではないですが
確かめないと決めたわけでもないのですから
2010.11.18

環状線はなだらかに造られた人工物だ。
固形の姿をした一瞬を人は限りなく愛すことなどできないし
壊す

ケンタウルス
全治3カ月の怪我を受けて
病室のベットで眠っている

簡単にいうなよ
こんなことしらないよ

廊下で光が走った
だから追いかけた
そしたら教室のドアにぶつかった

籠城のような屋号が
どうしてこんなにわたしに意味を伝えてくるのか

いいから
凍えそうだね
さあ、食べて
私がつくった
にゅうめん