日常茶飯事 韓国ん 忍者ブログ
ソロユニット"とりととら"の主宰・玉邑の日々
2025.02.27
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2010.11.26
韓国ん
歩き煙草をしている人を見るとイラっとくる。
当たったら危ないだとか思うけど元々歩き煙草禁止のルールができる前はそんなにイラっとはしなかった。
僕だけかもしれないが、なんだかルールと決められてからそれに違反するひとを見ると、ルールを決めるまえより感情的になってるように感じる。
枠組みがあってそれに対して判断する。それは枠組みから感情が出現するということなんだと思う。
無秩序の状態に感情が出てくるのは難しいのかもしれない。
ここでいってる感情は人間の、って意味で。
動物は欲望だし感情があるとしても人と違うものだろう。
夕日を見て感動するのは人だけだと思う。
動物が感動するとしても人のようにじゃない。
でももしかしたら感動しているのかもしれない。でも人間の言葉でそれを表すことは不可能だ。

そもそも現実っていうのが目に見えるって時点で感情はその現実の形のある物に投影されていくんじゃないかと思う。だって形が現実だから(目に見えない空気もあるけどとりあえず置いといて)
形になっている一つのものを自分と自分じゃない他人が見ていると物が私たちの仲を取り持ってくれる。
そのおかげで私たちは言葉もしゃべるし何かを作ることもできる。
ようするに形になっているものを共有しているっていうのが、他人と関わるにおいてかなり大きいキーワードらしい。
目に見えるものを見たり、もしくは見えなくても音を耳で聞いたりして、他人と共有できるものがあると体感している、そして安心感を得ているんだろう。それは他人と触れ合う時にもいえることで、実は、物を通すっていうのは体を通すっていうことともいえる。自分の体も形なんだからそれで他人と形を共有しているんだろう。

でもそこには共有しきれないものも確かにある。
ないものねだりをする人はそれをなんとか共有しようと必死になる。
けれどすごく単純なことで、ただ、形を共有すればいいだけのことなんだろう。
形から受け取る感情まで共有しようとすると人は何かへんな方向にいってしまう気がする。
でもそれは、他人を自分と切り離して考えるということではなくて、発言するけれど影響を与えようとするのではないということだ。影響は、受け取った人が決めるものなのだからそこは深追いしすぎないほうがいい。
じゃあ私を知ってほしいと思いながら話すことは影響を与えることになるのか。
そもそも他人と話す、発すること自体が影響を与えようとすることなんじゃないか?とも思う。
結局はそういう自問自答をしながら、相手と話すことしかできなくて、そしてそれが大切で、もしかしたら何か相手に与えるだろうなっとわかっていればそれでいいのかもしれない。
影響を与えたい、なんてその人個人のプライドだろうなんだから、それは極力減らしたいとは思う。
自分を認めてほしいというエゴを表現をかえて言ってはみても、やっぱりそれはどこかへんな方向にいかざるおえない気がする。
相手を受け入れるっていうのは、考えて話すということんなんじゃないか。
話しているときに、自問自答していたとしてもそれは相手の影響を受けているんだから、いいんじゃないか。
話している人のことばかり考えるということはある意味で相手を受け入れていないということにもなる。
相手を知ろうとしなくても、会話の中で自問自答や質疑応答などしていたらそれは生きている話しになりそうだ。どうして自分と話すことが、こんなにも他人をないがしろにしているという風潮になっているのかわからない。ねむいから文章ハチャメチャ。

北韓国が韓国に爆弾?ロケット弾?を落としたことを今日知った。遅い。
その話の中で、詳細を聞いていたら、初め詳細なしで聞いた時より他人事に感じた。
そのことを忘れないようにしたい。
アフガニスタンより近いところで起こった事件は距離が近い分、聞いた時、ショックだった。
詳細を聞いてアフガニスタンくらい遠く、他人事のようになっていくのがなんなのかもう少し考えないといつまでもそういう国と国との問題を棚に上げそうだから、自分を探っていきたい。

ねる。
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