日常茶飯事 忍者ブログ
ソロユニット"とりととら"の主宰・玉邑の日々
2025.03.07
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2007.10.14
夜に散歩をしようと思いはや数日。
なかなか思い通りには行かない。
うちの前にある老人ホームにはときたま救急車が止まっていることがある。
これは多分、あぁ、って思う。
こんなに近く起こってることも僕は認識できないでいる。
それくらいの生活水準でなにができるんだろうと考える。

昔『MEMENTO MORI』って本を読んだ。
衝撃を受けた。
でも今は衝撃を受けたという出来事だけしか覚えていない。
感覚は麻痺するものだと思う。

最近ビデオカメラを使っているんだけど、そのカメラにうちの実家が改装する前の写真が入っていた。
それは引越しする前の風景で、ダンボールとかが山済みにされているだけのごくありふれたものなのだけれど僕にとってすごく意味のあるように思えた。
それは、ごく近い時期にうちの実家の引越しのことを考えていたからで、ただそれだけの理由なんだけどすごく意味を感じた。
それに、このごろは家族のことをよく考える。それに過去のことも。
これはいったいなんなのか、わからないけれど思い出すことがたくさんある。
思い出すことがたくさんあるということは、忘れていたことがたくさんあったということで、僕は忘れていたことすら忘れていた。

今、「坂口安吾の堕落論」を読んでる。
どういうわけか僕は堕落したいらしい。
めんどうな人だと自分で思う。
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2007.10.13
毎日稽古。
昼も夜も。

今聞いているのは、浜田真理子さんの
夜も昼も。

少しづつだが微妙に演出で調整している毎日。微々たるものですが確実に変わってきてはいる。あまりにも微々たるものなので役者には結構負担だと思う。
申し訳ない。
でもはじめてなりに少しでもいいものを作りたいと思う。僕の力なんて微々たるものですが、その少ない力を最大限いかそうと思う。
毎日はあっという間。

のんびりいく暇はあまりない。
でものんびりするように心がけよう。
ないものねだりが人生だ。

欲望は永久に不滅です。
2007.10.10
前に北千住に行った時、
『東京銭湯 お偏路MAP』というのを買った。
それには東京の銭湯が網羅されていて、各銭湯にいくごとにスタンプを押す用紙がついている。
それを88個集めると銭湯お遍路認定書をもらえるというのだ。
これはやるしかないと思い、今日からさっそく銭湯に行った。
もちろん稽古の合間に。

第二千歳湯。
30センチくらいジャンプすれば女湯が覗けるのではないかというほどの仕切りがあった。
お湯がすごく熱く、これが江戸っ子かと思った。
ちょっと手がやけどみたいに熱くなったので途中で上がり頭を洗った。
二回目のシャンプー。

稽古途中に銭湯にいくのは、贅沢なのかなんなのかよくわからないが、
それくらい必死にならないで演劇ができたらと思う。
演劇をやってるぞ!っていう感じじゃなくて、演劇がいつの間にかそこにあるっていうぐらい馴染ませたい。
必死にやっていいことはあまりないように思う。
少なくとも僕は必死にやると空回りする種類の人間だからいいかなと思う。
表現なんて、って思ってる部分もあるのだと思う。日常と表現って言葉がもっと近くになればいいなと思う。
芸術は何かを表現するものなら日常は芸術だと思う。それくらい馴染んでほしい。
演劇も、芸術も。
もっと楽に生きたいなって思う。
社会性とかから逃げる。

楽に生きちゃだめだって昔、言われた。
でも楽に生ようとするのもまた大変なんだな。
どっちも大変なら楽に生きたいな。
苦労したくないな。
ずーっとなんとなくでいきたいな。
2007.10.08
どうでもいいけど折込を見ていてみんないろんなことやってるなー面白そうだなーって思った。
へっこむ。
ただの紙切れなのに。
想像力ってすごいと思う。
ちょっと怖い。
2007.10.08
焼き芋を何年ぶりかに食った。
うまかった。
スーパーたなかの前を通り、アトリエに向かって少し左に反れてお寺を横目で歩く。
北千住はかなり面白い街で、もし夕方予定がなければもう少し散策していたと思う。
蔵を改装して喫茶店にしたり、アトリエにしたりしているし、
大道芸みたいな人が商店街にいるし、福引をやってる長蛇の列から聞こえる音はほぼ大当たりの鐘の音。

自分の地元の匂いが少しした。
リサイクルショップで不意にも自分の服を買う。緑の長袖。

こういう街を歩いていると家族が目に入る。
実際そうなのかはわからないが、幸せそうな家族がスーパーや商店街、福引をして過ごしている。
同じ時間なのに僕は彼らとは違って何か見過ごしてるんじゃないかと思うことがある。
その見過ごしてる何かってなんだろう。
そんなの誰もわからない。
それは多分、道端にあるタバコの吸殻入れとか、腐った木でできたベンチみたいなものだ。
それをキャッチして誰かに示したいと思っていてもかなりの確率で僕は目の前のものをキャッチすることができない。

なんだこれは。
こんなはずじゃなかった、と思う。
どうすりゃいいのかわからない。
でもわからないで終わっても仕方がない。
これが厄年か、って厄年のせいにしたら厄年が可愛そうになる。
厄年はもっとでっかい厄なはずだ。
厄はほしくないけど、福もそんなほしくないなって思う。
わかった。だから地面の染みとか見過ごすようになったのか。
や、それは見過ごしてもいいか。
じゃあ、空の青さは、
それは見過ごせないな。
でも雲が雨雲なら見過ごすべきだろう。
それってあまりいいものじゃないけど、だからってそれが悪いものでもないのではないか。
いかんいかん、先入観。よろしくない。
これが社会性か、日本人はそうやって曖昧にする。
いかんものはいかんって言おう。
よし、毎日三回はいかんぞ、っていうぞ。
ちなみに「いかんぞ」の「ぞ」が重要だぞ。
よし、すべて語尾に「ぞ」ってつけるしかないなこりゃ。
あ、夕日だ。


ってことを延々考えて、散歩。

北千住はいい街。