日常茶飯事 忍者ブログ
ソロユニット"とりととら"の主宰・玉邑の日々
2025.03.06
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2007.12.28
富嶽百景
懶惰の歌留多
八十八夜
蓄犬談
おしゃれ童子
俗天使
駆け込み訴え
老ハイデルベルヒ
走れメロス
東京八景

やはり面白い。
前の本とかぶっている部分があるので少し飽きたけれど勢いを感じた。
東京八景は人間失格に近いものなっているし
懶惰の歌留多も太宰さんらしく面白い。
僕は蓄犬談が一番好き。
真剣に本当に真剣に犬が嫌いなのがわかる。
こういうユーモアを持てたらと思う。
次はマルクスの資本主義を読もうと思う。
断念する確立大だと思うががんばるつもり
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2007.12.24
50円で売っていた本。
50円って値段のつけ方が少し悲しくなる。
まあ値段じゃないのかもしれないけど。
内容は、正直僕にあまり合わない。
なんだか読んでいてねむたくなった。
多分起伏が少ない作品だったからだと思う。
でも少し夫婦の関係が僕の恋愛と似ていてわかるところもあった。
そして思ったことは、やっぱり夏目漱石さんも悩んでいたということ。
世の中はあういうわずらわしいものでいっぱいだと思う。
嫌いじゃない。
歳をとったらもう一度読んでみようと思う。
2007.12.22
限度
音楽を聴いていて文章を書いているとその音楽からどのくらいの文章が抽出できるかということを考える。
ようするに飽きるまでに無意味な文章をいくら書けるかということだと思う。
多分限度があると思う。
いくら普遍的なものだっていつか飽きる。
少なくとも僕は飽きる。
それは感動でも怖さでも楽しさでも悲しさでも寂しさでも。
全部飽きる。 
その飽きるまでにまた新しいことが出てきてそれでまた飽きるまでそれを思う。
そういうことだと思う。
飽きるは慣れるの延長線上にあるんだと思う。
昔、基準値の高い人になりたいと思った。
なんでも知っている人。
いろんなことを経験しているとか。
でも全部自己満足なんだろうな。
でも自己満足じゃないともいえるだろうな。
いつものごとく思うのは
何もわからないということをわかっているということはわかるものとわからないものを知っているということなのでそれはわからないというもののどこがわからないか無意識に知っているということなのでそれはなんとなくわかっているということになるんじゃないかということ。
でもこれはわからないってのがちゃんとした位置にいること前提だけど。
どうせフラフラしてると思う。
わからないも。
わかるも。
2007.12.21
右の方にこけました。
頭半分顔半分をバンクに預けて生きていこうと思い
郵貯にいったら民営化だなんだといわれ断られ
UFJにいったらUSJにいってしまったりして
大阪だと思ったら京都だったりもして
迷子と最後が似ていると思って東急ハンズを闊歩していたら
ごしごし洗うと綺麗になるツルピカくんを発見したので買いました。
そのときよこではなにかしらあったんだと思いますがもう僕にはどうでもよくて
帰り道のドーナツの並ぶ客の群れもてんで気にならなかったんです。
新宿を出発して最寄り駅に帰ろうと思っていたらあんのじょう高尾山口に着きました。
天気がよかったので山を登りました。
しかし顔半分がないのでいかんせんバランスが悪い。
そこで季節外れのりんごの木がありましたのでむしって重しにしました。
これでバランスがよくなってロープウェイより早く頂上について
まっさきにみたものは下です。
外になにも見るものがなかったかというとそうではないのですが
何故か下で
まあ考えても見れば上を見ても結局雲と空なので
やっぱり下を見るべきだと思いました。
少しいやな気分にはなりましたが
何も見ないよりましだと思いましたので
おそばを食べて下山して寝ました。
もちろん帰りなんかいも転びました。
バランスがいかんせん悪かったので。
りんごは食べてしまったのでなおさらでした
2007.12.20

周りは動いているのに僕はとまっている感じ。
寂しいやらなんやらで少し憂鬱になる。
過去を思いやる。
戻らないのは知っているけれど少しそれを寂しく思う。
人や人や人が大切だなと思った。
第一希望はわかっているのに繋がらない。
思うだけだと繋がれないと思った。
好きな人がたくさんいる。
形にするつもりはないけれどたくさんいる。
なんでもかんでも好きだな。
本当に全部。
というかどこまでも。