日常茶飯事 忍者ブログ
ソロユニット"とりととら"の主宰・玉邑の日々
2025.02.27
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2011.03.21
記録
色々書きなさい
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2011.03.21
記録
2011.03.20
記録
2011.03.18
いつの間にか地震の影響で先を考えるようになっていたようで
日常にのめり込んで抜け出せなくなっていることに気付きました。
それは悪いことではないけれど、いままで自分に課してきたことがほとんど浮上してこないことに驚きました。自分は踊りたい。自分は書きたい。
と思って怠けながらもやってきたはずなのに天変地異があるとそれがどこか日常に密着していないところにいってしまうような気がして考えていたやりたいことが、自分の生活にあまり関係がないことだということを自分が選んでいたみたいです。もちろん食べたり寝たりしなければ生きていけないから、特にこういう状態が不安定なときは身体の緊張がとけないから眠っても熟睡できず身体が眠りを求めたり、食欲が多くなったり、何か起きた時のために身体のエネルギーを常に減らさないように食べたりするんでしょう。だから簡単にいったら文字を書くことも踊ることもやっぱり生活が安定してこそあるものなんだろう。ようはそういう考え方なんだ、自分は。
それが僕なりに馬鹿だなと思いました。
でも、じゃあ安定を優先するとかそういう地盤を自分はしっかり踏み立っているのか。というとそうではないと思う。どこかで自分は、癖のようなもので生活をしているんだろうと思う。
やりたいことを生活に密着した状態にしたいっていうより
生活自体にしたいっと思っているのにこの有様だな。
物を書いて踊って生活をしたいとかそういう意味ではなく、ご飯を食べることも、寝ることも、書くとか踊るとかと繋がっている行為だと思えたらっという意味だと思う。
ここの繋がるって言葉もうまくいえないけれど、繋がる間に線や糸やケーブルとかそういうものが取り持っているのではなくて、「同じになる」っていうことだと思う。んー違う。
多分「ご飯を食べる」と「物を書く」は根っこでは同じ感覚でできることなんだと思う。
それを身体の動作やその行為をやった結果で違うと思っている自分がいる。
今、僕がいる部屋は、被災地と空で繋がっている(空気とか空間でも繋がっている。というか連なっている?)
という感覚は「繋がる」っていう何かと何かを繋げる何かが必要で、ようするに間があるということは被災地と僕の部屋は違うということなんだろう。でも実は繋がっているの意味は、「同じ」ということなんだと思う。

「同じ」が適切かわからないけど、違う言い方をすると日本規模で考えるとかいう「広がり」の話しになりそう。
別に「日本」の中に「被災地」と「僕の部屋」が入っているわけじゃないし。地図上ではもちろんそうだけど、言いたいことはそういうことじゃない。
あー
ようわからんぞ、今日も。
埒が明かない毎日だ。
2011.03.17
記録