日常茶飯事 忍者ブログ
ソロユニット"とりととら"の主宰・玉邑の日々
2026.09.25
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2011.02.10
好きというのは、相手を受け入れること?
それとも自分を主張すること?
両方だと思うけど、
好きっていうものの下地があるような気がする。
僕なりの。
相手にもよるだろうけど、

好きというのは
どういうことだろう。

そしてやっぱり暴力か。
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2011.02.10
→ 五日目
こっちは今、夜の22時。
時差が二時間ちょうどです。
ちなみに10日は僕の誕生日。
明日は、チェンコーンっていうラオスとの国境にある町にいきます。
さっきタイマッサージ受けてきたから元気。
起伏が激しい。

不思議なことだけど、
詩を書こうとしても言葉が単純明快になっている。
言葉の通じない場所でできるかぎり知っている単純な言葉で人に伝えるために努力していると
どんどん言葉が単純になっていくようだ。
だから今僕の考え方もシンプルで、思想なんてものがぜんぜんないから持ってきたカントのおっさんの哲学書なんか読んでも意味不明だ。
この単純になった原因は、外の環境を処理できていないから起こっている現象かもしれない。
現象っていうほどでかいことでもないけど、とても自分が環境に振り回されているのがわかる。
でも実はこの状態がもっとわかるのは、日本に帰ってきて落ち着いてからなんだな。多分。
こんな中で戯曲の原案を構築しようとかできない。
ただ、なんかひっかかる。
遠い場所ですぐには会えない人のことを考えることや
近くにいても遠くに感じる(多分、感じようとするんだ。それくらい人はないものねだりだ)こと
それってなんだろう。
僕の命題はすごく単純だから哲学なんて程遠い。

愛とか大切だと思う。
でも愛ってなんだ。
出会う、別れるてなんだ。
場所の距離と心の距離のことか?これは。
うまく言葉にできない。
寂しいとはなんだろう。
僕は日本に大切な人がたくさんいる。地震がきたらと思うとこの場所がつらくなる。
地震のことを棚にあげて大丈夫と思うと少し安心する。
これはなんだ。
ちゃんと寂しくなりたい。
こんなのただの妄想だろう。

別のこと。
暴力っていうのがひっかかる。
あと、個々の自己表現の仕方。それを受け入れるのは優しさ?それとも自分が寂しいから?
これ重要。
玉邑、忘れるな。
2011.02.08
→ 三日目
移動移動で疲れた
やっとこさチェンマイ。
でっかい街だけあって日本語も使える。
七年前も同じことを考えてた。
会話ってとても大切だ。
日本語以外できないから単純に寂しい。
そんなんでいくのが悪いと思われるんだろうな。もっともです。
環境がかわるから疲れやすくもなる。
ここへきて日本のよさを感じるのはへんな気がする。
帰る場所があるから余裕があるというのはなんだか気持ち悪い。
馬鹿だと思われるだろうが、何度も日本に帰りたいと思う。
この中で何を育てられるのか。
なにも育てなくていいんだろう。
失恋だとかでしんどいから、
いっしょうけんめい生きるよ
2011.02.06
→ tuita
nihongo utenai
sukinahitokara rennrakuha nasi
hitoride
karani
tozikomorru tumorihanaikedo
sikkari zibunno miraiwo kanngaetai

kotobano
omomiwo kannziru
nihongono moziga kokoni utitai
bokuha nihongo sukida

ikoku demo odorou maibann nanigaattemo
2011.02.05
→ 失恋
不思議なもので
思いの量が同じでないと雪崩れ込んでいくこともできない。
壁は高くも低くもなくて
ただ間があるだけだ。
伝わらないわけではなくて伝わった行為を認めたい。
親友と話したが、
一生懸命みんな生きていることを前提にする必要がある。
買いかぶりすぎかもしれないが、今のそれがあなたの精一杯だと信じたい。
僕はそれしかできない。
それが一生懸命生きる証拠になる。
苦しいけれど
甘えるな。
育てるのは自分だけだ。
あなたが好きでした。
って
お前あほか。