日常茶飯事 日常 忍者ブログ
ソロユニット"とりととら"の主宰・玉邑の日々
2025.02.27
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2011.04.08
風と向かっていくのと同じだ
早く歩けば歩くほど抵抗が強くなる
毎日も急ぐと対抗する力が強くなる
なるべく風を吸い込んで力にすること
追い風も向かい風も大差はない
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2011.04.06
根を張りながら羽ばたく空を地中を突き破り空へ空を突き破り地へ
2011.03.21
メモ
死なない という表現が禅と近いのか
住まいに住む特別製は日常と反する?当たり前になったらどうなる
住民に対して思ったこと

言い換えするわけではなく根っこの繋がり
理由ばかりもう違う
荒川さんの怒りは自分自身に対しての怒りに見えた
2011.03.18
いつの間にか地震の影響で先を考えるようになっていたようで
日常にのめり込んで抜け出せなくなっていることに気付きました。
それは悪いことではないけれど、いままで自分に課してきたことがほとんど浮上してこないことに驚きました。自分は踊りたい。自分は書きたい。
と思って怠けながらもやってきたはずなのに天変地異があるとそれがどこか日常に密着していないところにいってしまうような気がして考えていたやりたいことが、自分の生活にあまり関係がないことだということを自分が選んでいたみたいです。もちろん食べたり寝たりしなければ生きていけないから、特にこういう状態が不安定なときは身体の緊張がとけないから眠っても熟睡できず身体が眠りを求めたり、食欲が多くなったり、何か起きた時のために身体のエネルギーを常に減らさないように食べたりするんでしょう。だから簡単にいったら文字を書くことも踊ることもやっぱり生活が安定してこそあるものなんだろう。ようはそういう考え方なんだ、自分は。
それが僕なりに馬鹿だなと思いました。
でも、じゃあ安定を優先するとかそういう地盤を自分はしっかり踏み立っているのか。というとそうではないと思う。どこかで自分は、癖のようなもので生活をしているんだろうと思う。
やりたいことを生活に密着した状態にしたいっていうより
生活自体にしたいっと思っているのにこの有様だな。
物を書いて踊って生活をしたいとかそういう意味ではなく、ご飯を食べることも、寝ることも、書くとか踊るとかと繋がっている行為だと思えたらっという意味だと思う。
ここの繋がるって言葉もうまくいえないけれど、繋がる間に線や糸やケーブルとかそういうものが取り持っているのではなくて、「同じになる」っていうことだと思う。んー違う。
多分「ご飯を食べる」と「物を書く」は根っこでは同じ感覚でできることなんだと思う。
それを身体の動作やその行為をやった結果で違うと思っている自分がいる。
今、僕がいる部屋は、被災地と空で繋がっている(空気とか空間でも繋がっている。というか連なっている?)
という感覚は「繋がる」っていう何かと何かを繋げる何かが必要で、ようするに間があるということは被災地と僕の部屋は違うということなんだろう。でも実は繋がっているの意味は、「同じ」ということなんだと思う。

「同じ」が適切かわからないけど、違う言い方をすると日本規模で考えるとかいう「広がり」の話しになりそう。
別に「日本」の中に「被災地」と「僕の部屋」が入っているわけじゃないし。地図上ではもちろんそうだけど、言いたいことはそういうことじゃない。
あー
ようわからんぞ、今日も。
埒が明かない毎日だ。
2011.03.13

地震が起きたけど僕は幸い無事でした。
今ニュースは地震のことばっかりでそのニュースに対してコメントも多く書かれています。
その中には「日本は助けあえる国だ」とか「希望を捨てずに一生懸命生きようとした命です」となんだか頭だけ情報に突っ込んだような言葉があったりして
すごく表現できない気持ちになりました。
僕はよくわからないんだけど
なんだか震災の人たちのためにしてあげられることがあるんなら、今一生懸命生活することのような気がしました。うまく表現できないからこんなものをブログに上げることが間違っているかもしれないけど、本当に個人的な気持ちとしてただ言いたくなっただけと、すごく大切なことだと思ったから書いています。
震災の人を思って自分になにかできることがないかという気持ちを持つけど、
そう思った人が、停電のせいで仕事の時間帯に影響があり作業がしにくくなった時に、めんどくさそうにしているのがとても不思議だと思いました。
よくわからないけど、被災者にできることは、別に救済にいくことだけでも食べ物を送ることだけでもなく、
災害の影響で自分の生活に影響があった色々を苦にせず受け入れようとすることだってりっぱな被災者への支援だと思いました。
もちろん、現地にいって救済をすることも同じくらい大切だと思います。
ただ、仕事があったりその場所にいくことができない状態の時でも自分の生活の中でやれることがあるような気がすると思った。
間接的にでも助けられることが山ほどあるんだと思う。
焦ることも怖がることもあるけど、わかりやすい方法にいきすぎないようにしたい。
多分混乱っていうのはそういう風に気付かずに入り込んでるものだと思う。

落ち着いてとかいわれても落ち着けないし。
ただ混乱はしなくない。
あと「希望を捨てずに一生懸命生きようとした命です」という言葉に対して「どこにいても人は一生懸命生きようとしてる」と怒った人を見て、すごいなと思った。
だから人は人を思える、救える。という感じです。