ソロユニット"とりととら"の主宰・玉邑の日々
2012.02.06
→ 無題
言葉の勢いを止める技術はあると思う。
それは技術であって気持ちじゃない。
結局ひとつ、ひとり。在ることは不思議と言える人を羨ましい。
考えるだけでは到達できないから感じる。
いつでもそれができるようにしないと自分がしんどいなら
そういう風な状態に常に管理しておくこと。
でも環境は動いている。
ルールは枠づけをしてわかりやすく、行動しやすくするけれど
根底はそのルールを指定した気持ち。
その気持ちにしたがえばルールは破ってもいいもの。
大切なものは自分の心であって
人じゃない。
自分は自分にたどり着けない。
死ぬことは生きることと違うという二元論を超えて存在しなきゃとても生きていられないよ。
もう少し素直に。
言葉の要約は結局知識をお菓子の詰め合わせのようなもの。
それかビニール袋にどれだけはいるか?っていう野菜の叩き売りのようなもの。
それに価値なんてない。
意味はあるけど意味が価値の多さが高さに繋がると感じる単純ばか。
もっと自由に。
言葉は限界がある。
論理的なものにもそれはある。
言葉にカテゴリーする機能がある時点で限界を言葉がつくっている。
けど言葉自体は得体のしれないもの。
言葉で言葉は説明できない。
それは生きている意味が説明できないのといっしょ。
なんでも理由は説明できない。
言葉でするとどこまでも深くなる。
それは井戸のようでいて深くどんどんピントが合うように感じるけど
いきつくさきはピントが合わない。
カテゴリーを明確にするということは整理するように感じるけど根本的にカテゴリーの自由度を広めることになる。
それと同じことでこだわりつづけることは何かに固執するように感じるけれど
結局はなんにも固執しないことと同じになるということ。
けれど僕はその途中で疲れてしまった。
突き詰める必要はある。
出口が同じだとしてもそれを体感した人の体は違う。
重みがある。
なにかを発信する勇気を失ったときは失った状態を受け入れて踊る必要がある。
そうしないとしんどい。
つねに楽しくなんていれない。
そんな強くない。
目的がはっきりすればするほどルールの流動性ができる。
そして目的にこだわればこだわるほど自由になる。
他人に依存しないほうがいい。
それはしんどいから、お互い気持ちよすぎることもあるから。
だから自分に目的を持つこと。
価値は差異じゃない。
価値は存在しない。
虚像。
存在するのはもっと具体的なもの。
思想とか自分も目的ももしかしたら具体的なものじゃないのかもしれない。
具体的なもの自体存在しないのかもしれない。
そう本当に思うならそれを決めるとこからが出発。
決めることがたとえカテゴライズすることだとしても恐れない。
その選択もすること。
全部自由だ。
そのもう逃れられない自分の思考の中でわかっていくこと。
もしくはまかせていくこと。
気付いていくこと。
中間で立ったまま。
まわりは動いているし自分も動いている。
だから川の流れのバクテリアみたいなもの。
真ん中にこだわることもまた極度と同じ。
ようするにどこへでもいけること。
それを許すこと。
幅は決まっている。
自分の等身大も決まっている。
そこから。
その大きさ、高さ、持っているものは人それぞれ生き物もものも違う。
けれどみんな同じようにここにいる。
こだわるのは真ん中でも極度でもない。
もっと動いているもの。
それがなにか。
ありきたりだけど今だってこと。
それ以上ない。
今に夢中になる。
それが一番の強さ。
それは技術であって気持ちじゃない。
結局ひとつ、ひとり。在ることは不思議と言える人を羨ましい。
考えるだけでは到達できないから感じる。
いつでもそれができるようにしないと自分がしんどいなら
そういう風な状態に常に管理しておくこと。
でも環境は動いている。
ルールは枠づけをしてわかりやすく、行動しやすくするけれど
根底はそのルールを指定した気持ち。
その気持ちにしたがえばルールは破ってもいいもの。
大切なものは自分の心であって
人じゃない。
自分は自分にたどり着けない。
死ぬことは生きることと違うという二元論を超えて存在しなきゃとても生きていられないよ。
もう少し素直に。
言葉の要約は結局知識をお菓子の詰め合わせのようなもの。
それかビニール袋にどれだけはいるか?っていう野菜の叩き売りのようなもの。
それに価値なんてない。
意味はあるけど意味が価値の多さが高さに繋がると感じる単純ばか。
もっと自由に。
言葉は限界がある。
論理的なものにもそれはある。
言葉にカテゴリーする機能がある時点で限界を言葉がつくっている。
けど言葉自体は得体のしれないもの。
言葉で言葉は説明できない。
それは生きている意味が説明できないのといっしょ。
なんでも理由は説明できない。
言葉でするとどこまでも深くなる。
それは井戸のようでいて深くどんどんピントが合うように感じるけど
いきつくさきはピントが合わない。
カテゴリーを明確にするということは整理するように感じるけど根本的にカテゴリーの自由度を広めることになる。
それと同じことでこだわりつづけることは何かに固執するように感じるけれど
結局はなんにも固執しないことと同じになるということ。
けれど僕はその途中で疲れてしまった。
突き詰める必要はある。
出口が同じだとしてもそれを体感した人の体は違う。
重みがある。
なにかを発信する勇気を失ったときは失った状態を受け入れて踊る必要がある。
そうしないとしんどい。
つねに楽しくなんていれない。
そんな強くない。
目的がはっきりすればするほどルールの流動性ができる。
そして目的にこだわればこだわるほど自由になる。
他人に依存しないほうがいい。
それはしんどいから、お互い気持ちよすぎることもあるから。
だから自分に目的を持つこと。
価値は差異じゃない。
価値は存在しない。
虚像。
存在するのはもっと具体的なもの。
思想とか自分も目的ももしかしたら具体的なものじゃないのかもしれない。
具体的なもの自体存在しないのかもしれない。
そう本当に思うならそれを決めるとこからが出発。
決めることがたとえカテゴライズすることだとしても恐れない。
その選択もすること。
全部自由だ。
そのもう逃れられない自分の思考の中でわかっていくこと。
もしくはまかせていくこと。
気付いていくこと。
中間で立ったまま。
まわりは動いているし自分も動いている。
だから川の流れのバクテリアみたいなもの。
真ん中にこだわることもまた極度と同じ。
ようするにどこへでもいけること。
それを許すこと。
幅は決まっている。
自分の等身大も決まっている。
そこから。
その大きさ、高さ、持っているものは人それぞれ生き物もものも違う。
けれどみんな同じようにここにいる。
こだわるのは真ん中でも極度でもない。
もっと動いているもの。
それがなにか。
ありきたりだけど今だってこと。
それ以上ない。
今に夢中になる。
それが一番の強さ。
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