ソロユニット"とりととら"の主宰・玉邑の日々
2009.02.01
言葉のつなぎ合わせや考え方とかその構成なんかも含めいろいろ思うけど戯曲はやっぱり遊びなんだなって思う。
演劇には戯曲ってのがよくあるけど、戯曲自体言葉から逃れられないわけで、たとえト書きでも行動を言葉にする必要がある。言葉はやっぱり認識とかコミュニケーションに使われるものだから読んだり聞いたりしていると漠然としていた意味が一つ一つの単語で明確になっていくものだと思う。
人の認識は案外偏ってて、歩くっていったらやっぱり足を動かして基本的に前に歩くわけで。そこらへんの共有認識として言葉があるんだろうけど、なんかそんなんでいいんかな?って思うことがある。
認識の幅を狭めるのが戯曲でいいのか?って思う。認識の幅を狭めるって言葉もまた説明すべきなんだろう。
この言葉のひっかかる問題は多分、狭めるってところで広がるかもしれないじゃないか?って思う。
確かにそういう時もあるけれど、あくまでも「彼」から「背の高い彼」とではイメージが明確になっていくわけで、その「彼」っていうのが「・・・」という状態のときに「歩く」っていうのがあるとやっぱり少し明確になる。目的が見える(模索するヒントが得れるとか)。そこで別に明確にすることは悪いことじゃない。ただ明確にしすぎる(すぎるってのもややこしいけど)ことって必要なのか?って思う。
そもそも戯曲っていうのはなんなんだろう?
上演台本はあくまでも結果的なものであるから戯曲ではないと思うし戯曲は一つの文学っていう形で完成形としてあるんなら戯曲を別に前提にして演劇を作らなくてもいいんじゃないのか?とか思う。
もちろん戯曲のない演劇はある。僕は言ってる戯曲を前提に作らなくてもいいってのは、戯曲があってもその言葉とか構成をそのまま尊重しなくてもいいんじゃないのか?ってことで。
まぁそれは演出の仕方?になるんだろうしそんな演出はいっぱいあるんだろうけれど、そもそも戯曲を、上演されるために書こうとするもの。っていうのがまずおかしい気がして、上演するためのものっていうのは、誰がはけるとか、なんとか、とか。
戯曲を書くの過程(人によって書き方も違うけど)で、Cが動き始めるとか、ここでCが入って間を持たすとかで作っているような気がするけれど、そういうのは、舞台上のイメージが作家の頭に介入してるからかけるわけで、舞台上のイメージっていっていいのかもわからないけど、あくまでも作家のイメージがそのト書きにも現れるわけです。
別に戯曲の中にト書きがあることが悪いとか言いたいんじゃなくて、戯曲を崩さないとかセリフを崩さないという意味はどこにあるのか?っていうことだと思う。
作家のイメージを考える(たった一言の戯曲の中で浮いたセリフの意味を考えるなど)ことって必要か?ってことかな。
考えるじゃないな。考えた結果、作家はこういうことを言っているんだ。って思ったら作家の言っているであろう意味をそのまま自分の中に落とし込もうとすることに問題があるんじゃないかな。
そして戯曲自体も上演台本というあいまいなジャンルがあるんならひとまずもっと自由に書いてもいいんじゃないかと思った。
この人のセリフがここにあって、流れがこうで、なのであなたはここにいなきゃね、なんてよくわからない。
自分の書いた戯曲もしかり、僕は散文詩状態にしたいし、演出家(役者)がその散文詩を切った張ったをしたりそのまま出してどうするのか見たい。
ただ、また問題があって、散文詩状態にするっていうのに戯曲っていう完成はあるのか?という問題で、一歩間違えば散文はただの垂れ流しになるし意味不明になる可能性も高い。そして読み物のほうが面白いかもしれないし(ってこれは上演するって解釈が入ってるかも)僕は、その振り幅を考えてる。
そもそも戯曲ってジャンルがわからない。
ウィキペディアでは設計図的なものとか書いてるけど、そもそもト書きの種類にもよるけど大体が演出指示を書いてることも多い。っていうか演出っていうのはなにか?っていう話になっていきそう。
なんだこの話。
ともかく戯曲の書き方がもっと増えればいいと思う。
型を戯曲で先に作ってるのを崩すのが演出?なのか?とも思ったけどやっぱりよくわからない。
戯曲に対してどういうスタンスで演出していくのか?を具体的にしたい。
ひとついえることは、言葉はなくてもいいっていうことだ。
戯曲は言葉がないと書けない。結局そこが戯曲っていう設計図的な曖昧な文学?の限界なのかな?って思う。あくまでも文学としての限界で、結果的に上演することの限界ではないとは思うけど。
演劇には戯曲ってのがよくあるけど、戯曲自体言葉から逃れられないわけで、たとえト書きでも行動を言葉にする必要がある。言葉はやっぱり認識とかコミュニケーションに使われるものだから読んだり聞いたりしていると漠然としていた意味が一つ一つの単語で明確になっていくものだと思う。
人の認識は案外偏ってて、歩くっていったらやっぱり足を動かして基本的に前に歩くわけで。そこらへんの共有認識として言葉があるんだろうけど、なんかそんなんでいいんかな?って思うことがある。
認識の幅を狭めるのが戯曲でいいのか?って思う。認識の幅を狭めるって言葉もまた説明すべきなんだろう。
この言葉のひっかかる問題は多分、狭めるってところで広がるかもしれないじゃないか?って思う。
確かにそういう時もあるけれど、あくまでも「彼」から「背の高い彼」とではイメージが明確になっていくわけで、その「彼」っていうのが「・・・」という状態のときに「歩く」っていうのがあるとやっぱり少し明確になる。目的が見える(模索するヒントが得れるとか)。そこで別に明確にすることは悪いことじゃない。ただ明確にしすぎる(すぎるってのもややこしいけど)ことって必要なのか?って思う。
そもそも戯曲っていうのはなんなんだろう?
上演台本はあくまでも結果的なものであるから戯曲ではないと思うし戯曲は一つの文学っていう形で完成形としてあるんなら戯曲を別に前提にして演劇を作らなくてもいいんじゃないのか?とか思う。
もちろん戯曲のない演劇はある。僕は言ってる戯曲を前提に作らなくてもいいってのは、戯曲があってもその言葉とか構成をそのまま尊重しなくてもいいんじゃないのか?ってことで。
まぁそれは演出の仕方?になるんだろうしそんな演出はいっぱいあるんだろうけれど、そもそも戯曲を、上演されるために書こうとするもの。っていうのがまずおかしい気がして、上演するためのものっていうのは、誰がはけるとか、なんとか、とか。
戯曲を書くの過程(人によって書き方も違うけど)で、Cが動き始めるとか、ここでCが入って間を持たすとかで作っているような気がするけれど、そういうのは、舞台上のイメージが作家の頭に介入してるからかけるわけで、舞台上のイメージっていっていいのかもわからないけど、あくまでも作家のイメージがそのト書きにも現れるわけです。
別に戯曲の中にト書きがあることが悪いとか言いたいんじゃなくて、戯曲を崩さないとかセリフを崩さないという意味はどこにあるのか?っていうことだと思う。
作家のイメージを考える(たった一言の戯曲の中で浮いたセリフの意味を考えるなど)ことって必要か?ってことかな。
考えるじゃないな。考えた結果、作家はこういうことを言っているんだ。って思ったら作家の言っているであろう意味をそのまま自分の中に落とし込もうとすることに問題があるんじゃないかな。
そして戯曲自体も上演台本というあいまいなジャンルがあるんならひとまずもっと自由に書いてもいいんじゃないかと思った。
この人のセリフがここにあって、流れがこうで、なのであなたはここにいなきゃね、なんてよくわからない。
自分の書いた戯曲もしかり、僕は散文詩状態にしたいし、演出家(役者)がその散文詩を切った張ったをしたりそのまま出してどうするのか見たい。
ただ、また問題があって、散文詩状態にするっていうのに戯曲っていう完成はあるのか?という問題で、一歩間違えば散文はただの垂れ流しになるし意味不明になる可能性も高い。そして読み物のほうが面白いかもしれないし(ってこれは上演するって解釈が入ってるかも)僕は、その振り幅を考えてる。
そもそも戯曲ってジャンルがわからない。
ウィキペディアでは設計図的なものとか書いてるけど、そもそもト書きの種類にもよるけど大体が演出指示を書いてることも多い。っていうか演出っていうのはなにか?っていう話になっていきそう。
なんだこの話。
ともかく戯曲の書き方がもっと増えればいいと思う。
型を戯曲で先に作ってるのを崩すのが演出?なのか?とも思ったけどやっぱりよくわからない。
戯曲に対してどういうスタンスで演出していくのか?を具体的にしたい。
ひとついえることは、言葉はなくてもいいっていうことだ。
戯曲は言葉がないと書けない。結局そこが戯曲っていう設計図的な曖昧な文学?の限界なのかな?って思う。あくまでも文学としての限界で、結果的に上演することの限界ではないとは思うけど。
PR
カレンダー
01 | 2025/02 | 03 |
S | M | T | W | T | F | S |
---|---|---|---|---|---|---|
1 | ||||||
2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 |
9 | 10 | 11 | 12 | 13 | 14 | 15 |
16 | 17 | 18 | 19 | 20 | 21 | 22 |
23 | 24 | 25 | 26 | 27 | 28 |
カテゴリー
フリーエリア
最新記事
(01/08)
(01/03)
(01/03)
(01/03)
(01/03)
最新TB
最古記事
アクセス解析