最近は、少し受け取り方を変えていきたいと思ってる。
僕が人にできるだけいやな思いをさせないようにするように
僕がいやだと思うことをする人はその人なりに相手を気遣っているのかもしれない。
小学校では自分がされていやなことは相手にしないようにね。と教わったけど
それは単純すぎると思う。
本当に最近思うことは、うまくいえないけど
お互いが楽しいとかお互いが対等だとかいった関係が最善じゃないんだなってこと。
僕はヘコタレ人間だから一般論に寄り添うよう努力しているけど
どうも綺麗ごとなんだろうな。
二人のうち一人が笑っている関係とか、片方はきつい言葉をいって片方はそれに耐えるとか
そういった関係もあるんだなっと思った。
そんなこと知ってはいたけどそれが最善だという感覚を持てずにいた。
今でも自分はそれがいいとは思わないけど、極端に偏ったバランスで成り立つ関係を受け入れれると思う。
関係ないかもしれないけど
性的な関係で男はヤルほうで女はヤラレル方と未だに感じるのはなんだろう。
前の同性愛の作品でそのことが散々本に書かれていて、性欲が怖くなったことがあったけど、
やっぱり、その片方が片方への行為っていうのはなくならなくて、
ただ性的なものだと、行為として実感が持てる(持てない人もたくさんいるけど)から、
極端に偏ったバランスで成り立つ性交もイメージしやすいけど(だからSとMってわかりやすい言葉があるのかも)、日常の関係になると会話とかでしか関係を判断できないからとてもアヤフヤな気がする。
でも日常でもそのヤルとヤラレルっていう関係はあるんじゃないかと思う。
それは、ヤルとかいう極端な言葉じゃなくてもっとやんわりと、言う、言われるとか。
聞き手と言い手は必ず互いで両立するから、言うことと言われることも二つで一つだと思うけど、
本当に二つで一つなら、どちらかへ偏ることもないんだろう。
それなのに、言うやヤルっていう行為にある種の強さを感じることで、言われる、ヤラレルが弱く感じる。
なんだかそのパワーバランスで日常は動いている感じがする。
人の魅力も、人を好きになることも。
何かを言わないことも言うこともいつでも差し替えられることができるのに
何かを言わないといけない気がする。
主張することは黙ることだけでもないし話すことだけでもないと思う。
無私っていう言葉が頭からはなれん。
流されるわけでも全部にYESというわけでもなくて関係性っていう人間にしか存在しない理由でものを見るのでもない。
僕から見るとバランスが偏ったものを人によっては一番いい状態というのかもしれないなっとは思うけど
バランスの根拠が自分にあるならそれはエゴに感じる。
こういう主張もエゴだという考えが頭を苛むし、実際そういわれたらそうかもしれないっと思う。
それくらい相手に何かを主張することができなくなっているし論理武装でもしなきゃしんじゃいたくなる。
けど、ほんとに、これがいい状態か?って問われると、全然そんなことないって僕は思う。
みんな頭がよくなりすぎたんじゃないのかなって思うこともある。
頭がいいと怖がりになるんじゃないかな。
PR