日常茶飯事 うむん 忍者ブログ
ソロユニット"とりととら"の主宰・玉邑の日々
2025.02.27
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2011.07.06
うむん
先日ダンスのWSにいった。

人の熱をどうやって人に伝えようとするかというエクササイズをやった。
面白かった。
人の細胞と細胞の間には隙間があるんだって。
それでその隙間に人の熱を通す余地があるんだ。
そう考えていくと人と人は必ずつながっているといいきれる。
もちろんとても具体的な思考だと思う。
もっと追究すると人は人をすり抜けれるかもしれない。
その隙間を広げることが体を動かすことであり、ダンスすることストレッチすることだと思う。
筋を伸ばして筋肉を伸ばして縮めて体の許容範囲を増やすことは世界を今まで以上大きくとらえるということ。
そのことをあらためて感じさせられた。
こういう思考がなぜ抽象的なものだととらえる人が多いのか。
具体的なものは今の時代だとすごく抽象的なものだったり霊的なものに召喚されてしまう気がする。
目に見えないものをないものにするのはおかしい。
日々暮らしていて、人に何かを表すことのむずかしさを感じる。
不純な表現はどんなときでも伝える相手を惑わせる。

怒っている、いらだっている、めんどくさいとか
そういうものを表すとしてもキチンと相手に伝わるように表す必要がある。
社会はそれをオブラートに包むのが正しいというけれどそんなことはない。
嫌いなものは嫌いだと言えるようになる必要がある。
それを言うためには言う人が土台を作らなきゃいけない。
自分の中にキチンとその感情は悪意がないという土台。
嫌いも好きも怒るもイライラもなくならない。
それは暴力がなくならないと同じことだ。
そういうものをないように生活できるほど人は綺麗じゃない。
だから悪意というものを純粋に出せるようになったほうがいい。
汚いものは汚いと互いに認識があればいい。
互いにっていうのが難しいけどせめて自分だけでもその負のパワーをデフォルメして負を強めないようにしたい。
人に好きということと、嫌いということが違う行為だと思っているうちはだめだ。
同じ質量でいいたい。
質はどんなに同じ言葉の中でも違うから、もしかしたら嫌いも好きと似た質になるかもしれないでしょう。
なんか話はそれたけど、言葉の意味として負と正はあっていいと思うけど、感情までそういう概念に巻き込まれてると思う。
考えるっていうことでいろんなものが発見されたけど、そのせいでこんなことになってる。
これからできることは今の状況をちゃんと知ること。
そのために考えている思考をまた考え感じなきゃいけないと思う。
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